金蘭千里中学校・高等学校

中高一貫・男女共学

大阪府吹田市藤白台5丁目25番2号

TEL:(06)6872-0263

がっこう

沿革

沿革

1905年
明治38年
創立 大阪府立堂島高等女学校(現在の大手前高校)の同窓会金蘭会が女子教育振興のため金蘭会高等女学校を創立する。
1925年
大正14年
独立 創立20周年を機として金蘭会より独立し、その後は金蘭会高女の同窓会芳友会員中より学園の理事が選ばれ経営の主体となる。
1948年
昭和23年
改組 学制改革により金蘭会高等女学校を金蘭会中学校と同高等学校とに改組する。
1963年
昭和38年
短大創設 短期大学(家政科)を創設する。
1965年
昭和40年
金蘭千里中学校・高等学校創設 千里ニュータウンの北公園内に新たに金蘭千里中学校・高等学校を創設し、同時に短期大学を大阪市内より同地に移転。
2003年
平成15年
大学創設 千里金蘭大学を創設する。
2005年
平成17年
分離独立・新校舎竣工 金蘭千里学園として金蘭千里中学校・高等学校が独立し、新校舎が竣工する。
2013年
平成25年
校章ロゴタイプを制定 参考:『校章ロゴタイプに関する基本仕様規定(PDF)』
2015年
平成27年
創立50周年 50周年記念式典を開催。
2016年
平成28年
PLAN2020始動  

由来

校名『金蘭』

『金蘭』の名称は易経の説明書である繋辞伝の中の『二人心を同じうすればその利(と)きこと金を断つ、同心の言(ことば)はその臭(かおり)蘭の如し』の文よりとったものです。これは「志を同じくするものが協力一致すれば何事でも成し遂げることが出来る。また立派な心を持っている者同士のことばは蘭の花の香のようなかぐわしい雰囲気を醸し出すものである。」という意味です。

同窓会名『尚友』

『尚友』の出所は『孟子―萬章下篇』の中の『以友天下之善士為未足、又尚論古之人、頌其詩、読其書、不知其人、可乎、是以論其世也、是尚友也』からとったもので、「友達というものは類をもって集まるものであるが、天下での優れた人物を友達としても、なおかつ満足できなければ、さらに昔にさかのぼって、古の聖人や賢人を論じて友達とするものだ。だが、いかにそれら古人の作った詩を吟じ、その著した書物を読んでも、その作者の人物を知らないでいったいよいものだろうか。だから、さらに進んでその古人の活動した時代を論及していかねばらなぬ。これがつまり『尚友』、すなわち『さかのぼって古人を友達とする』ということなのだ。」という意味です。また、吉田松陰の士規七則の第五にも『人古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば、即ち鄙夫のみ。読書尚友は君子のことなり。』とあります。さらに、「尚」には「尊ぶ」という意味もあり「友達を大切にする」という意味にも通いるところから、『尚友』を同窓会の名称としました。

校章ロゴタイプの由来

ロゴ部分

今回の校章ロゴタイプのリニューアルにおい て制作されたロゴ部分は、「先人(古人)から学び、真面目で、実直であることを重視しながらも、重苦しくならない、洗練されてすっきりとした印象を与える」ことを目標とし、「洗練+品位」をコンセプトに制作されています。具体的には、モダンなゴシック体を基本としつつ、線や骨格に隷書体や楷書体の伝統的な書体の要素を取り入れています。 それにより、可読性とすっきりと清潔感のある印象を持ちながらも、品格を感じさせるデザインになっています。日本文字の下部に附属する英字部分は、古典的で洗練されたローマ碑文系の書体、Trajanを選択しています。

マーク部分

マーク部分は、学園設立時にこめられた理念の継承を重視し、なおかつ現代の社会情勢において、より共感を得やすくすることを目標 としました。そのため、デザインの改変は必要最低限にとどめています。具体的には、男子/女子で分かれているマーク(帽章/胸章) のうち、校章とされている男子の帽章に、女子の胸章のデザインを融合させつつ、造形的なブラッシュアップを施したデザインとしました。

マニュアル

本マニュアルは、平成24年12月に金蘭千里中学校・高等学校の校章ロゴタイプの制作/リニューアルに伴い、作成されました。本マニュアルの内容は、金蘭千里中学校・高等学校の校章ロゴタイプの原則的な使用ルールを説明するものです。

校章ロゴタイプに関する基本仕様規定(PDF/1.2MB)

理念

建学の精神

本校の「建学の精神」は、右記の5点に集約されます。
中等教育は、単に読み書きを教えるだけでなく、人間を
鍛え人格を高め、より優れた人に育て上げていくという
ことでなくてはならないと考えています。

1

私塾

師と仰ぐ人のもとで塾生が、
師に私淑して直接に師の
人格的感化に浴し、
人間として成長していく。

2

道場

自ら道場に入門し、
道場の精神に従い、
その精神になりきる
ことができるように、
己を作り替えていく。

3

自主独立
英国のパブリックスクールの精神

生徒が自主独立で個人としての
権威を持って己を磨き、
やがて成人したならば、
「多数の人々がそうしている
のだから同じようにしよう」
というようなことのない堅固な
個人として行動する。

4

スポーツマンシップ
の涵養

若いうちに何か一つのスポーツを
徹底して行い、スポーツマンシップを
体得する。男子はサッカー、
女子はバレーボールを校技と定める。

5

自然に接する

成長期の青少年は、山野の
草木の間に伏して、草木と息を共にし、
陽を仰ぎ星の光を眺めて生活し、
自然の持っている逞しい生命力を
己の中に吸い込むべきである。

人物像「断金八鍛」

  • ・コミュニケーション能力
  • ・リーダーシップ
  • ・柔軟性

この三要素を兼ね備えた、

「切りひらく覇気・引きうける意気」

を持った人物の育成を目指します。 三つの徳目は、本校オリジナルの理念「断金八鍛(だんきんはったん)」で伸ばすことを 想定しています。これは、校名の由来である『繋辞伝』の一節、 「二人心を同じうすればその利(と)きこと金を断つ」からとったものです。
金蘭千里の教育「断金八鍛」では、次の八つの力を伸ばします。

「わが学校の生まれつき」

1974年、佐藤一男初代校長は創立10周年を機に、さらなる発展を願って、本校の建学の精神を「わが学校の生まれつき」と題して、 生徒・保護者、教職員に語りかけました。

学園長 佐藤一男

私は学校卒業後ずっと、戦前は中学校や高等女学校に勤務し、戦後は高等学校に奉職して、一貫して中等教育に従事してきました。 その間に、青少年を指導するにはいかにあるべきか、ということを自分なりに考えてきました。教育ということは、単に読み書きを 教えるだけでなく、教える間に教えられる者の人間を鍛え人格を高め、より優れた人に育て上げていくということでなければならない と思い、学校はいかなるものであるべきかをいろいろと考えてきました。 1962年の春、公立学校を退職した後、心中秘かに理想と考えていた学校を作ってみたいと思いました。 時あたかも造成中の千里ニュータウンの北公園の中に、学校用地として予定してある土地のあることを知り、大阪府の方へ払い下げを申請しました。大阪府の方では、千里ニュータウンは理想的な住宅都市として造成中なので、その中にただ普通の高校を建ててもらっては困るという返事なので、ただの高校ではない、特徴のある模範的な高校ですというので新しい高校の新設計画をいろいろと作って提出いたしました。
 私が、人間を育てる学校として第1に思いつきましたのは私塾であります。私塾で師と仰ぐ人のもとで幾人かの塾生が、師に私淑して直接に師の人格的感化に浴し、人間として育成していく、これが人間を教育する原型であると考えました。師の人間的感化を直接に感受するためには、弟子が余り数多くては困難です。しかし、弟子の切磋琢磨ということも必要であることも考えて、1学級30名と定めました。 学級担任の先生が塾頭として30名の子弟を指導し、その塾がいくつか集まって学校をなす。仮に30の塾があるとすれば、全校生徒900名で学校ができる。私は塾が基本の学校であるから、あまり大きな学校は作りたくないと思いました。
 人間を鍛え育てるために、日本には古くから道場があった。仏教の道場ではその道に入った初心者がその道場の掟に従って、いろいろの修行をし困苦を重ねて己を鍛え、自分がその道場の精神に従い、その精神になりきることができるように己を作り変えていくのでした。 今日の学校も単に知識を習得するだけでなく、生徒が在学期間に己の人格を鍛え直し、より正しくより強い人柄に作り直すというのであれば、 学校を一つの道場と考え、種々の困難に堪え、長きに亘って己を磨く事によって角が取れ、自ら光を放つようならねばならない。生徒は、 学校に入ったことは己を錬磨するために道場に入ったつもりで、日夜己を磨くことに精進しなければならない。私が学校を作るとすればできるだけ道場の空気を帯びた学校を作りたいと思いました。
 私は1959年に文部省の第一回の校長等海外教育事情視察団というのに参加し、主に、英国の学校を視察しました。その視察のうちで、 特に印象深かったのは、南イギリスの海岸のブライトンの近くの丘の上にあるランシングというパブリック・スクールを視察したことである。 近くに人家のない丘陵の上にその学校は建っていました。校舎で一番高く聳えているのが礼拝堂で、授業する校舎その他は、それに附属するように建ててありました。礼拝堂はゴシック式の内部は薄暗く壮麗な構えで静寂な空気がしっとりと沈んでいた。これが学校の精神的中心のようであり、学校はこの礼拝堂を主軸として動いているようでありました。パブリック・スクールといっても、私立の学校で生徒は14,5歳から 18、9歳までの男子で、総数三百数十名で皆家庭を離れて、この学校のハウスという寄宿舎に50名宛くらい分宿して学校に通っているのでありました。 ハウスには、ハウスごとに教授の一夫妻が宿泊をともにして生徒と起居を同じくしている。また、教室からハウスへ往復する生徒たちの挙動見るのに、 生徒たちはすべて背広ネクタイ靴と紳士として恥ずかしからぬ服装に威儀を正し、子どもらしい雑談を交わしたりふざけあったりすることは全くなく、 いわば中世の僧院の廊下を修道僧が行き来するかのように慎重に押し黙って行動をしている。友達相互の友情というものはあるのだろうが、 各人はそんなことには頓着なく、それぞれ独立自主で、自分は自分の責任で挙動している。イギリス人の独立性を目の前にまざまざと見せられた心持ちで 頭の下がる思いがしました。中世の僧院を今に生かしたような礼拝堂のある宗教的雰囲気とそこで慎重に行動している生徒たち、私は、イギリス人の独立性はそうしたパブリック・スクールで養われるのだなと、深い感銘を持ってこの学校を眺めました。私は、私が学校を作るならば、生徒がそこで自主独立で個人としての権威を持って己を磨き、やがて成人したならば多数の人々がそうしているのだから 同じようにしようというようなことのない、付和雷同性の全くない堅固な個人として終始するような学校を作りたいと思いました。
 人があなたのスポーツは何ですかと聞かれたとき、これというスポーツはやっていないと答えるのは、その人の一生がいかにも貧弱で淋しい。 人はできるならば、若いうちに何かのスポーツに熱を入れ、スポーツマンシップを身につけておくべきだと思っていますが、今日の高等学校は大学入試の 準備があって大変忙しく、みなにスポーツをやらせスポーツマンシップを体験させるためには、何かのスポーツを学校でやらせる必要がある。生徒はラグビーもやる、 バスケットもやる、また柔道もやるというように広く浅くやるという必要はない。何か一つのスポーツを徹底してやり、スポーツマンシップを体得することが必要であろうと考えまして、本校では、男子はサッカー、女子は、バレー・ボールと定めました。
 わが校に来る青少年を見ますと、いずれも人口過密の都市生活に日常を送っているものであり、見ているといかにもひ弱く神経質であります。 日々生長しているこの生長期の青少年は、もっと多くの自然に接し、でき得れば山野の草木の間に伏して草木と息を共にし、陽を仰ぎ星の光を眺めて生活し、 自然の持っている逞しい生命力を己の中に吸い込むべきであると考え、各学年ともキャンプを行うよう計画しました。
 こうして生まれた金蘭千里も早十年の年月を閲した。その間、竹内校長先生始め職員の方々の献身的なご労苦により当初の計画に副い学校は育成され、 今日の姿を見るに至りました。先生方のご苦労は元よりでありますが、父兄の方々の並々ならぬご声援、一般社会の方々のご同情、殊に小学校、中学校の先生方の ご厚情により、今日まで無事に育った事を、襟を正して感謝いたします。また生徒のみなさんも素直によく学校の指導に服して、穏当な空気に生徒の社会を作られたことにも敬意を表します。

『学校だより』創立10周年記念号(昭和49年11月発刊・第4号) より

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