イートン校紹介イートンカレッジ(ETON COLLEGE)創立ウインザー近郊、アワレーディー オブ イートン キングスカレッジは70人の貧しい学生に住居と教育を与えて、ケンブリッジのキングスカレッジに送り込む意図の下に、ヘンリー6世王によって1440年に創立されました。「オピデン」(語義:町に住む人)制の発展につれて、他の少年たちも授業に出席できるようになりました。ヘンリー6世を退位させたエドワード4世は、このカレッジを廃止してしまおうとしました。イートンをウィンザーのセントジョーンズに付属させてしまおうというエドワード4世の考えを変えさせるのに功のあったのはジェーンショア夫人であったと伝えられています。けれどもカレッジは以来ずっと少ない経費で賄われることになり、創立者が意図した壮大な礼拝堂を建てることは不可能になりました。 ハウス及びチュートリアルシステム17世紀に入ると子息をイートンカレッジに入れることが貴族の間で流行になり、町の下宿屋から通って来ました。現在のカレッジと24の寮制が生まれたのは、これからでした。当時少年たちは各々個人指導教授をも伴って来たものでしたが、今日でも一人一人の少年に多くの教授の中から選ばれた個人指導教授がつけられます。 イートンに入学すると同時に、「クラシカルチューター」がつけられ、3年経つと「モダンチューター」を自分で選べるようになります。普通は、Aレベルを勉強している科目の教授が選ばれます。この個人指導教授制度の利点は、各々の少年が自己に合った指導を受けて、群衆の中の一人に押し込まれてしまわないことでしょう。 ドクター・キーツ1766年には、70人の奨学生の他に450人のオピデンが居るようになりました。イートンは、多分に保守的な面を保っていたものですから、中世的な学校の特色であるとてつもなく大きな級は殊に目立つものでした。有名なドクター・キーツ(校長 1809-1834)は、5年生と6年生を集めて一緒に教えようとしましたが、ただでさえ躾るのが難しい貴族の子弟の事ですから、この試みは、200人のひどく騒々しい少年達の集団となってしまいました。終始罰則を加えていたのですが、教室での狼藉や本や卵を投げ付けられるのを防ぐことの出来なかったドクター・キーツは、しまいには監督生(級長)を任命していたずら者を見張らせ、見付け次第、前に出させてその場で罰を与えることにしました。 改革生徒数が786人を達した1841には、ドクター・キーツの指導方法は時代遅れになっており、彼の後継者は大々的な改革を行うことになりました。この改革の主な目的は、当時恵まれない苦しい生活をしていた多くの奨学生の生活を改良することにあり、時間割に数学、科学、現代語が組み込まれ、イートンは中世的学校から近代的学校へと変身したのです。多くの助教授が新規採用され、級の大きさを小さくする為に新しい教室が建てられました。過去10年間の改良は特に目覚ましく学寮の近代化、科学館、劇場の建設がなされました。 イートンの学生生活初期はじめの頃の奨学生の生活は苦しく、一つのベッドに三人寝起きするロングチャンバーに共同生活していました。下級生に対する弱い者いじめや虐待は、毎晩6時半からの外出禁止後特にひどいものでした。少年達は毎朝6時迄に教室に行き約9時間勉強しましたが、学んだのはラテン語とギリシャ語だけでした。上級生が威張って下級生に料理、靴磨き等雑用をさせる習慣が生まれたのはこの処でした。 住居今日でも約70人の奨学生が居て、うち15人は毎年6月にある競争試験によって選ばれます。彼らは、1846年に建てられた新館と昔からあるロングチャンバーから成る「カレッジ」に寝起きしますがロングチャンバーは勉強室兼寝室に区切られています(個室制)。オピデンの数は今は約1200人になり、24の学寮に生活します。寮は平均50人の少年と一人の舎監が居てやはり個室制です。 又、各々の寮には、ザ・デームと知られる寮母が居て「マダム」と敬意を込めて少年達から呼ばれています。 寮の規律は通常5人の監督生からなる組織によって維持され、規律を破った者には、ラテン語を何回も写す事や舎監の家の庭の草むしり等の罰を与えます。 授業一級10人から25人の級を教える教授が約130人居ます。殆どの教室は約100年経ったものですが、古いものは1443年に建ったローワースクールの教室から1958年から64年にかけて建った超近代的なクイーンズスクールの化学館や生物館等色々です。一般入学試験を受けて普通13歳でイートンに入学します。最初の2 年間はラテン、歴史、神学を含むクラシックと数学、フランス語、英語、科学及び体育を学びます。6年生になると自分が選んだ主要3科目だけを学ぶようになります。授業は月曜日から土曜日までの午前中と月水金の午後2時間あります。残りの半日はいわゆる"自由”の時間で好きな事をしていいわけですが、いつも一日約3 時間分の勉強が残っていますからよほど上手に時間を使わなければいけません。 運動イートンでは、フットボール、ラガー、クリケット、ボート漕ぎからフィールドゲームまで種々のスポーツが行われます。このフィールドゲームというのはイートン特有の一種の組み合わせゲームでフットボールに似ていますがラガーの場合のようにスクラムを組むのです。テニスコートの他に、約220エーカーの運動場、体育館、プール、ゴルフコースも有ります。イートンのボートクラブは世界最大のもので約4マイル上流のクイーンズエイトという島には疲れたり、喉が渇いたりした漕ぎ手の為の休憩所まであります。
リクリエーションこのような素晴らしいゲーム施設の他に、まだ沢山の施設があります。美術部、技術部、ここでは木工、金属細工、電気等を扱います。音楽部には8人の常任講師と27人の通勤講師が居て、どんな楽器でも習う事が出来ます。少年達で運営している鉄道、現代語、合気道等のクラブも52あります。更にイートンが自慢するものに自然歴史博物館(土曜以外毎日2時から5時まで公開)、マルコニエリオット903 コンピューター、500人収容の新食堂(1974年)、最近改装された30,000の蔵書を持つ図書館などです。400 人収容のファラー劇場が1968年に建って以来、劇場活動はより盛んになり毎年200以上の劇が行われます。 慣例、その他イートンは英国で最も古い学校ですから昔からの慣例が色々残っています。中でも有名なのはカレッジ経営に父親のような関心を示したジョージ3世(1760-1820)の誕生日に当たる6月4日祭です。この日の呼び物は、ボートの行列で8人組のクルー全員が儀式張ったセーラー服を着込んで川を下って来てボートの上に整列するのですが中の一人、二人が落っこちるのがまた観客の歓声をよびます。もう一つのお祭りは、創立者の日で、ヘンリー6世の誕生日の12月6日で、彼の彫像はこの日月桂樹の花輪で埋まります。 校服モーニングに白のワイシャツですが、上級生になるとウィングカラーに蝶ネクタイを結ぶ事もあります。これは当時若者の間で流行っていた服装で19世紀中頃に校服に決まったのです。「ポブ」と一般に知られているイートンソサイエティー会員は、黒白の縞もズボンに縁取り付き燕尾服、飾りチョッキを着ます。最近の世論調査では71%の少年がこの校服を支持しました。奨学生は教室で短いガウンを着ます。 卒業生イートンの卒業生の中には多数の有名人が居ます。文学界ではハックスレー、フィールディング、グレイ、ジョージオーウェル等が居て、学校を去る少年には校長からグレイの詩集が渡されるのが恒例です。軍人ではハウ提督、キャプテンオーツ、それから、「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝ち取られた」等と言ったと伝えられているウエリントン公爵がいます。政治面では、C.J.フォックス、ロードローズブリー、ターニップタウンゼンド、それから、ウォルポール、ピット兄、ノース、グレイ、グレンヴィル、ブラッドストン、イーデン、マクミラン、ダグラスヒューム等多くの総理大臣がいます。ネパールのビレンドゥ王、エチオピアのゼレヤコブ皇子もイートン生でした。 ボートソング夏の学期の最後の日の学校音楽会でいつも歌われるこのボートソングは、6月4日祭の為に教授の一人、ウィリアムコリーが書いたものに彼の教え子だったキャプテンドラモンドが有名な曲をつけました。 建築物1719年に建てられたヘンリー6世の像が中ほどにある中庭をスクールヤードといいます。南側に礼拝堂、ラプトン一画とラプトンタワーが東側に、中庭に入って来る訪問者に面しています。北側にはレンガ造りのローワースクールとロングチャンバーが、そしてアパースクールは道路に一番近い西側にあります。礼拝堂に行くには、柱廊を右に曲がり、突き当たりの階段を上ると礼拝堂前室に出ます。柱廊の壁には、1157年の記念額と第一次、第二次世界大戦で亡くなったイートン卒業生の額が748順序に飾られています。
礼拝堂1441年に建築が開始されましたが、1448年になってヘンリー王が建物の大きさ変更を思い付いた為それまでに建っていた物の大半を取り壊さなければなりませんでした。工事が再開され、1461年には大体完成していたと思われますが、この年、エドワード4世が王位を奪い、イートンに対する経費を大幅に削ってしまった為、創立者が意図した壮大な構想は現実を見ず(現在の建物は、初期の計画ではずっと大きな教会の聖歌隊席になる予定でした)ウェインフリート司教の出費によって1479年西側を仕上げて礼拝堂前室が完成しました。礼拝堂及び前室は洪水に備えて地上13フィートの高さに建てられています。礼拝堂は15世紀垂直式ゴシック建築の典型で、非常によく均整の取れた一組の建物が基本的には実に簡素なのです。 屋根一見中世扇形丸天井の様に見える屋根は実際は腐ってゴキブリが出るようになったので危険を避ける為1959年新しい屋根が完成されました。創立者は石の丸天井を意図したのですが経費不足の為、木が使用されたのです。新しく出来た屋根は石に似せたコンクリートで鋼鉄の桝によって吊るされています。 壁画北ヨーロッパ有数の中世壁画です。1488年ウィリアムベーカーがオイルで描き、北側に聖母マリアの奇跡、南側に神話の女帝の物語が描かれています。新教改革後これらの絵がふさわしくないというので 1560年カレッジの理髪師に命じて、白く塗りつぶしてしまいました。1619年には木が張られましたが、1847 年合唱隊用の席を細工しようとして誤って壁画の一部が破壊されてしまいました。1923年に壁画は再発見され1975年に修復が完成されました。 戦争記念礼拝堂北側に建っている赤い十字のついた見事なステンドグラスの礼拝堂は世界大戦で命を落としたイートン卒業生の記念に建てられました。 ラプトンチャペル戦争記念礼拝堂のすぐ東側に1515年に建てられ金箔彩色付きの扇形丸天井は当時からのものです。 窓アバースクールの北側を破壊した1940年の爆弾の為殆どのガラスは割れてしまいましたが、東側の窓はダブリンのイビーホン嬢デザインで1952年にはめ込まれました。その両側に、ジョンバイパー及びパトリックレイテンス作の4つの窓が有り、南側は寓話、北側は奇跡が描かれています。 北側から東から西へ
南側東から西へ ローワースクール礼拝堂の向かいのレンガ造りの建物の中にありますが、現在使用されている英国の学校教室の中でも最も古いものでしょう。学生数が増えた為1665年頃に増築がある迄、このローワースクールが本館だったのです。今でも古風な机が残っています。ローワースクールの上は、ロングチャンパーで、 1846年迄、70人の奨学生が寝起きした所です。両方とも1500年より前の建物です。 アバースクール西側を占めていて、スクールヤードを入って来ると丁度上になります。1665年に建てられましたが、1689年危険になった為再建されました。卒業生の胸像が壁に飾ってありますが、腰板は、ウォルポール、ピット、グランドストン、シェリーを含む少年達の名前が所せましと刻み込まれています。 ラプトン一画1517年ラプトンタワーを中心にして建てられました。塔の下の道を行くと、1440年代からあるヘンリー王最初の企画の一部のクロイスターに出ます。南側には、1449年来、ずうっと今でも奨学生が食事をするカレッジホールがあります。その隣りは、クロイスターの庭に面して図書館があります。これは1725年から1729年の間に建てられ、最初に印刷された聖書の一冊をはじめ約25,000冊の校本や書籍が蔵書されています。1756年にクロイスターの庭の北と東側の最上階が建てられました。 運動場クロイスターを通り抜けて北東の角にある一番左の出口を出ると運動場に出ます。向かい側はカレッジフィールドで、その向こうに「ウォールゲーム」が行われるウォールがあります。このゲームは、イートン特有でウォールに沿ってスクラムを組んだチームがボールを一方の端に持って行こうと上下するのです。ボールが一方の端に持って来られると、そのチームはゴールに向かってボールを投げる事を許されます。片方のゴールは古いにれの木で、もう一方のゴールはウォールに取り付けてある扉です。カレッジフィールドの向こうの広場は、少年達の弓の練習用にとヘンリー6世が買い与えました。左に曲がると車道がウェストンズヤードを抜けて本道に戻ります。すぐ左のキングオブシャムガーデンは卒業生の一人であるシャムの王さまが校長に1929年に贈ったものです。ミデューサの頭を手にしたペルサスの像があります。 醸造所長い間学校の大きな醸造所でビールを自給していましたが、1875年醸造所の大火以後取り止めになりました。けれどもハイストリートにはザ・クリストファー・タブ・クラブという学校所属の酒場が今でもあり、16歳以上の少年は誰でも入れます。従来の醸造所は、英国初期水彩画とイートンの小歴史を集めたギャラリーになっています。入場無料ですが、ギャラリー維持費の為、見学者からの寄金が歓迎されます。現に使用中の施設の為、昔からの建物をはじめ、カレッジの大部分は一般公開されていませんが、スクールヤード、礼拝堂、クロイスター、運動場をめぐるツアーはお勧め出来ます。どうぞ、お楽しみ下さい。 一般公開の建物
(文章:イートンカレッジ・アンド・ハロウスクール日本事務局提供) |